皆様も御存知のとおり、かつて日本の土地の大半は農地であり、領主・支配者は農民から年貢を徴収していました。
豊臣秀吉や徳川吉宗が大規模な検地(検地とは田畑を測量・検査するということ)を行なったのは、いずれもこの地租を徴収するためでした。
一個の土地を一筆と呼ぶようになったのは、徳川吉宗の検地からと言われています。
明治時代に入り、所有権という概念が確立しました。所有権とは、細かく言うと使用・収益・処分することのできる権利です。それが江戸時代には無かったのです。
明治5年に土地の売買の自由が認められ、一筆(1個の土地)ごとに地券が発行されました。地券とは、この土地は○○の所有物ですという証明書のようなものです。
この際に、明治政府は年貢制をやめて、お金で税金を払わせるようにしたのです。
そのために政府は、全国の土地の調査をして、いくらの税金を払わせるか調べる必要があったわけです。
この調査をするのに土地の境界を決め、測量する必要がありました。これを字押丈量(じおしじょうりょう)といいます。
農民は当然反発し、あちこちで暴れました。
そこで、土地の測量は土地の所有者である農民たちに任せ、役人たちは検査をするにとどめたのです。
税金を払いたくない農民たちは、自分たちの土地を実際よりも狭く測りました。それが現在の縄のび(登記簿の面積より実測面積のほうが大きいこと)の大きな原因となっていると言われています。
実はこの時の資料が、現在の公図の原型となっているのです。